■水都大阪の象徴的な光景
先日、淀屋橋にてみられる朝日に関する新聞記事があった。
冒頭の写真は昨年、筆者が撮影したものだが、生駒山から昇る朝日がビル群に挟まれた土佐堀川に映り、独特の風景を醸し出す。早朝5時半頃から橋の上には人が集まりはじめ、時節柄、適度な距離を保ちつつ、多くの人たちがその瞬間に見入っていた。
大阪都心でこんな光景に出会えるとは。
ここ数年、「ご来光カフェ」で注目されているこの景色。2006年以来、毎年10月初旬の1週間ほど、かつ早朝の3時間足らずの限定カフェが営業されるという。この15年間くらいと思いきや、実は古来から見られているらしい。江戸時代の浮世絵師、長谷川貞信が描いた「浪速百景」でその情景が紹介されている。
前回のコラムにて中之島に開館した大阪中之島美術館と文化施設を取り上げた。また、以前のコラムでは東横堀川の川辺に開業した「β本町橋」について紹介した。これら都心の川のほとりには独特の風情がある。過去から大阪は水都と呼ばれていたように、自然の川、そして人が造った堀と共存している歴史がある。今回はこれらに着目した。
■水都大阪の「堀」や「川」
前回コラムの中之島の南側には、東西方向に土佐堀川が流れている。戦前の古い地図では、その南側に並んで幾重にも水路があったことがわかる。北から列記すると、江戸堀川、京町堀川、阿波堀川、立売堀川、長堀川、堀江川、道頓堀川。このうち現在も残っているのは最も南側の道頓堀川のみで、他の姿はなく地名のみが残っているにすぎない。
また、これらを南北に結ぶ西横堀川もほぼ見ることはできない。さらに、残っている東横堀川についても阪神高速道路の高架に覆われているため、その全景を俯瞰して見ることはできない。
豊臣秀吉の時代から昭和に至るまで、大坂及び大阪の水運は重要なインフラであり、その代表格の一つがこれらの堀や川である。それらの時代の背景には張り巡らされた都市水路により米や物資が随時運搬され、まちが発展していった経緯がある。
ただ、戦後は鉄道や道路などの陸運へシフトすることにより水運は徐々に衰退し、現在の姿に至っている。
ちなみに、「難波の堀江」という記述が「日本書紀」に登場する。今から約1700年前に、洪水や氾濫を防ぐため、仁徳天皇が難波宮の北に水路を掘削し、難波の海へと排出し、これを「堀江」と呼んだとのこと。「堀江」というと、西区の堀江地区をイメージしてしまうが、「現在の天満橋付近の大川」辺りではないかという説がある。古の名称は現在も地名として残っているのだ。
【天満橋から大川を臨む】
■水都大阪の「橋」
水都大阪には、これら「堀」や「川」に交差するように道があり、そこには「橋」が架けられている。前述のとおり、その昔は縦横に堀川があったことから、多くの橋があった。江戸時代には「なにわの八百八橋」と称されるほどだった。実際はそんなになかったという話もあるが、当時の人たちにはとても思い入れが強いものであったらしい。
というのも、橋には公儀橋と町橋があり、前者は幕府が築造したのに対し、後者は商人や町人たちが自ら費用を賄い、架けた橋だったからだ。例えば、「淀屋橋」はその近隣に居住していた豪商である淀屋が造ったものであり、「心斎橋」は長堀川の開削に尽力した岡田心斎の名を用いたという。
ちなみに、公儀橋は12のみ。なにわの三大橋といわれる天満橋、天神橋、難波橋のほか、野田橋、備前島橋、京橋、高麗橋、本町橋、農人橋、長堀橋、日本橋、鴫野橋で、これら以外は全て町橋であることから、商人や町人たちの思いと実行力、そしてその裏付けとなる資金力があったことを物語っている。
■「堀」も「川」も「橋」も「まちの裏方さん」
ここのところ、「エッセンシャルワーカー」という言葉が頻繁につかわれるようになった。
一般に、生活の根幹を支える医療や福祉、保育や第一次産業、行政や物流、小売業やライフラインなどで働く人々のことを指す。
これをまちに置き換えてみると、社会インフラ全般がそれにあたるだろう。その場合、かなり広い範囲がそれに該当すると思われる。鉄道、道路、河川、上下水道、電力、ガス、通信設備など挙げるときりがない。そして、そこには河川に類する「堀」や道路に付帯した「橋」も含まれるのではないだろうか。
そんな「まちの裏方さん」たちは、都市にとっての必須機能、いわば現代の「都市のエッセンシャルワーカー」だと信じている。
長い歴史を有するこれらがいつまでもその力を発揮できるよう、また、これまでと変わらず人々が末永く愛着を持ち続けられるようにと願う。
そんな思いにふけながら、朝日の写真を眺めると、どちらが主役かわからないくらい互いが眩く見えてくる。
■おまけ:水都大阪のクルージング紀行
少し前になるが、大阪都心をクルージングする機会があったので、紹介しよう。
中之島の船着き場を発し、時計回りに東へ向かった。
【大江橋】
その後、天神橋の下を通る。普段は橋の上からの視線が、橋の下、かつ川の上からのアングルで、非日常的な景色を見ることができた。
【天神橋】
【大川から中之島公園を望む】
東横堀川に入り、南へ下ると、水門が見えた。閘門(こうもん)という。
ほどなく左右から噴水が飛び出した。これは赤信号を意味し、船は停止する。すると、閘門が閉まり、水面が波打ち立った。水位をコントロールしているとのこと。規模は異なるが、パナマ運河と同じようなしくみらしい。
【東横堀川の閘門】
東横堀川から西へ折れ、道頓堀川に入る
おなじみの戎橋をくぐり、川面から橋の景色を見る。これも新鮮だ。
【戎橋】
道頓堀川から木津川へ入る際に「道頓堀川水門」を通る。
【水門】
北へ進路を取り木津川へ入る、そして中之島へもどってきた。
【堂島大橋】
大阪都心のリバークルーズ。違った角度からまちを見るのも悪くない。
車のように渋滞はないし、電車のような人込みもない。
「落語家と行くなにわ探検クルーズ」という大阪っぽい名前の航路便もあり、誰でも気軽に参加できる。機会があれば、川の上から水都大阪を体験してはいかがだろうか。
■略歴■
不動産鑑定士トシこと深澤俊男(ふかざわ・としお)。不動産業界に30年以上。CBRE総研大阪支店長を経て、深澤俊男不動産鑑定士事務所代表、株式会社アークス不動産コンサルティング代表取締役。「物言わぬ不動産と不動産マーケットを語る専門家」として、独自視点の調査コンサル・講演活動などを行う。独立後12年間の講演・講義回数は約300回。趣味は旅行。全国47都道府県に足跡がある、自称「ほっつきWalker」。感想をこちら(info@arc-s.biz)までお寄せください。こちらから「☆コラムちらし☆20220304☆」をダウンロードできます。